荘 真希(そう まさき)

ベトナムの正しい情報をシェアし ビジネス・文化の更なる繫がりに貢献 ソースベトナム/CEO 荘 真希(そう まさき) ベトナム現地の法律や規定。ベトナム語で公布され、頻繁に改訂されるため、企業の海外進出の大きな壁になることも多い。日本越僑の家庭に生まれ、両国の文化や商習慣を熟知する「ソースベトナム/Source Viet Nam」の荘真希さんは、企業の進出・法律・会計支援から最新情報の発信まで、今日も日越の関係強化に力を注ぐ。 日本から自身のルーツ・ベトナムへ 情報のギャップを埋めるサポートを提供 ベトナム人の母親と、ベトナムと台湾のハーフである父親。そんな家庭に生まれた荘さんは、いわゆる日本越僑だ。日本で生まれ、日本人として教育を受け育ってきた。しかし、ベトナムは自身の出自。家庭内ではベトナム語を使い、学生時にベトナムへの留学もした。そんな彼がベトナムを本格的に拠点と定めたのは2013年。ベトナムが持つ可能性に惹かれての移住だった。 「日本ではブリッジSEや営業の仕事をしていました。通訳業務もありましたが、当時はベトナム語の需要が少なく、このままサラリーマンとして働くことに疑問を感じていました。そこで、他にも何かできるのではと選んだのがベトナム。平均年齢の若さ、企業進出の多さなど、熱くチャンスがあるうちに行き、根を生やしたいと思ったんです」 ベトナムへ飛び込み、まず始めたのが日本語フリーペーパーの営業職。現地企業の経営者など多くの人と出会い知見を深めていった。しかし、同時に日本人が持つ現地情報が古かったり、間違っていたり、2国間に横たわる溝に気づかされることも多かった。そこで、日越の言葉が分かる自分だからこそ、皆に正しい情報を提供できると「ソースベトナム」を立ち上げた。 「企業や店舗の設立に関するものだけでなく、ビザ取得や仕事の探し方、家の借り方、ベトナムならではの商習慣など、まことしやかに伝えられる情報ですら、実は間違っていることも多々あります。私自身もそれらの情報を信じ、失敗したことがありました。しかし、実際に自分で起業しやってみたからこそ分かることも多く、今ではその経験が強みになりました。たとえば取得が難しいと言われるライセンスをクライアントが求める時、まず自社で取得してみることもあります。前例があればクライアントが取得できる可能性も高い。ライセンス取得のほか会社設立など、これまで顧客から受けた様々な依頼はいずれも完遂しています」 [...]

山河ド・フー・ソン

日本との20年の深い関係で 成功するビジネスマンのお話 エイチ・エス・シーインベストメント/創業者 山河ド・フー・ソン 日本国籍をもつビジネスマンの山河ドー・フー・ソンさんは、在日ベトナム人コミュニティの大先輩と知られている。人生の半分近くを占める時間を日本で過ごしたソンさんにとって、人生とキャリアは日本で形作られた。日本との約20年にわたる縁について話を聞いた。 時代の流れに乗る 日本で貴重な体験を 1990年代の後半から国際交流を促進してきたベトナムにおいて、日本語人材はまだ稀少な存在だった。「日本語ができたら、絶対にいい仕事に就ける」と踏んだソンさんは1998年にハノイ貿易大学に入学し、外国語科目に日本語を選んだ。 「私はもともと好奇心が強いこともあり、すぐに日本語を覚え、日本文化に興味を持つようになりました」 2002年には、ハノイ貿易大学と大阪国際大学の文化交流プログラムの一環として、日本に半年間、留学することとなった。 「関西国際空港に着いたときから、日本はもはや”本で知っていた国”ではなく、私の現実となりました。大阪では日本人のホストファミリーと暮らしました。大阪の人は性格はとてもリベラルで、ベトナム人との共通点がたくさんあると感じしました。とくにホストファミリーには5人の子どもがいて、ベトナムの大家族と同じような雰囲気だったので、うまく溶け込むことができました(笑)」 ホストファミリーのお父さんは地元の相撲コーチだった。相撲クラスに一緒に参加し、まわしの付け方や基本ルールなどを学び、大会にも参加したソンさん。日本での生活は充実したものとなり、半年の留学期間はあっという間に終わりを迎えた。ベトナム帰国した後も、「日本へ戻りたい」という気持ちは強く、留学のための奨学金と日本での仕事を探し始めた。 「そんな時、たまたまに国際協力機構(JICA)の炭鉱ガス安全管理センターのプロジェクトメンバー募集のチラシを目にしました。日本で働くこととなるので私の希望にぴったりだと思い、応募しました。無事採用されて、2004年から日本で働き始めました」 ソンさんはベトナム語通訳者として、石炭生産の技術移転のために日本に派遣されたベトナム人エンジニアをサポートした。 「ベトナム人のみなさんに知識を正確に伝えるためには、日本の専門家が教える知識を私が最も理解していなければなりません。興味深い技術的な知識を身につけることに加えて、17トンのトンネル掘削機の運転を見学し、北海道の海底300メートルの炭鉱現場を訪問するなど、この上なく貴重な経験をしました。このプロジェクトのメンバーの1人であったことは大変光栄に思います」 [...]

岡本 有矢(おかもと ゆうや)

日本エンタメをベトナムに広め 日越関係の強化に貢献する エム・シー・ヴィー/ビジネスデベロップメントマネージャー、 エムネットメディア/ゼネラルマネージャー 岡本 有矢(おかもと ゆうや) 『新婚さんいらっしゃい!』、『パンチDEデート』など、日本のテレビ番組のベトナム版が現地で人気を博している。ブームを仕掛けたのはベトナムで番組の制作・配信を行う日越合弁企業「エム・シー・ヴィー/MCV」。500名ほどの社員の中で唯一の日本人である岡本有矢さんは、「日本やベトナムのエンタメを好きになってもらうことで、両国の人々の心を掴みたい」と語る。 街のエネルギーに惹かれベトナムへ 現地エンタメ業界の門を叩く 岡本さんがベトナムを初めて訪れたのは2013年のこと。バックパッカーとしての周遊旅行で、昼夜問わず街に溢れるエネルギーに圧倒された。 「バイクのクラクションなど様々な音が入り交じる街の喧騒は、まるでオーケストラのようでした。旅行の最終日には『もっとここにいたい』と思ったほど惹かれたのを覚えています。最初はバングラデシュでのインターンシップに参加したいという思いから、日本で勤めていた会社を退職し、東南アジア・オーストラリアで英語を習得したのち、インターンシップに参加しました。その後、インドア派の自分でも外に出たくなるほどエネルギーをもらえるあのベトナムに、未だ最も強い魅力を感じていたことから、2017年から本格的にベトナムでの生活を始めました」 海外で仕事をして暮らす。その人生の拠点として選んだのが、大きなインパクトを与えたベトナムだった。就職したのは現地の日系総合広告代理店。しかし、大学の専門課程は法律、職歴も金融関連が主で、営業としては経験があったものの、広告業界は未経験。ましてやベトナムのエンターテインメントに関する知識は皆無だった。 「広告やマーケティングの理論や手法をゼロから勉強しました。特にベトナムの芸能人やトレンドは、流行りの音楽を聴き、Youtube動画やテレビの人気チャンネルを毎日のように見て学びました。現地向けのマーケティングには現地の知識が必須。現地採用枠での就職だったこともあり、ベトナム人目線でベトナムを見ることこそが、自分の価値になると思ったんです」 その後、自己都合により同社を退職するが、そんな折に声をかけられたのが現在勤める「MCV」だった。培ってきたエンタメに対する知見も活かせると、2020年に入社。以来、日本をはじめとする海外のコンテンツホルダーとの窓口や、新規事業の立ち上げを担当している。しかし、ベトナム企業での業務には日系企業とは異なる難しさもあった。 [...]

ファム・グエン・クイー

医師としての役割に目覚めた日本で ベトナムと日本の患者を支えていきたい 医学博士、京都民医連中央病院/腫瘍内科医長 ファム・グエン・クイー 20年以上日本に暮らし、日本は第二の故郷だと話す医師のファム・グエン・クイーさん。京都民医連中央病院での本業のほかに、祖国と在日ベトナム人のために多くのボランティア活動にも積極的に参加している。日本で努力していることや日本から学んだことを話してくれた。 ベトナム語ができる日本の医師として 日越のベトナム人に信頼性の高い医療情報を発信 「幼い頃から『おしん』の映画が好きでした。おしんの忍耐強さ、思慮深さ、努力する姿に憧れました」 日本を知ったきっかけを、こう話してくれたクイーさん。日本製の扇風機やバイクは「長年使っていても壊れない」と、日本に対する印象はよく、大学入学後は海外留学のために日本文部科学省の奨学金に応募し、合格した。1年間は東京外国語大学で日本語を学び、東京医科歯科大学医学部に入学したのは2003年のことだ。 大学時代は、空き時間を利用して日越友好関係のために何かをしたいと思い、在日ベトナム学生青年協会 (VYSA)に入会。文化交流に関するボランティア活動に積極的に企画・参加した。2012年には博士号取得を目前に控え、医学に関わるボランティア活動をしたいと考えた。 「帰国するたびに、ベトナム人の医療に対する知識不足を実感していました。患者は聞いた噂を信じ、それに従って治療をするため、悪い結果につながる場合が多いのです」 そんな状況を改善すべく、クイーさんはベトナム人の同僚と共に「コミュニティの医学」というボランティア事業を立ち上げた。 「アメリカがん協会など、信頼度の高いウェブサイトに掲載された病気の予防や治療に関する記事をベトナム語に翻訳し、プロジェクトのサイトに掲載することで、ベトナム人が信頼に足る情報を得られるようにしました。私のような海外在住者にとって、これは母国の患者を助けるための適切で実践的な方法だと思います」 現在は、京都民医連中央病院の腫瘍内科医として、化学療法を担当する。「コミュニティの医学」に加え、無料健康相談、受診前と治療中の準備に関するオンラインでのアドバイス、トークショーの開催など、母国と日本にいるベトナム人がより安心、安全な日本の医療にアクセスできるよう支援活動も行っている。 [...]

ヴゥ・テゥイ・リン

ベトナム水産業の発展のためにフグ食文化を根付かせたい ふぐ処理師・食物栄養学博士 ヴゥ・テゥイ・リン ベトナムで「フグ博士」と呼ばれるリンさんは、フグの捕獲も食べることも法的に禁止されているベトナムにおいて、フグの養殖・加工・輸出を実現し、海産分野における日越の協力を推進するために邁進している。フグ食文化をベトナムに根付かせたいというリンさんの人生は、フグ一色だ。     日本で実現したフグと運命的な出会い ベトナム国家大学ハノイ校日本語学科の学生だったリンさんは、新卒でミツイ水産に入社するまで、フグのことを全く知らなかった。フグは同社の主力商品で、下処理から製品加工までフグに関わるすべての工程を行う。仕事をすればするほどフグの面白さに目覚め、会社を辞めて十文字学園女子大学でフグを研究することを決意した。 「フグの業界で働いているのはほとんどが男性で、女性の私にとって不利な点がかなりあります。フグの知識や日本語の専門用語を覚えるのも一苦労で、疑わしい目で見られることもあります。一方、そんな私の頑張りを見て、ミツイ水産代表取締役の伊藤吉成さんや、十文字学園女子大学の山本茂教授をはじめとする、多くの日本人がとても熱心に協力してくれました」 フグに関する博士論文の審査に合格した後、リンさんはミツイ水産に復職した。ベトナムと日本の食品輸出入を促進し、両国の良質な製品の市場を拡大するなど、学んだ専門知識を商業の分野で活かしている。 「日本では、自分の夢を見つけ、どのように生きていきたいかを考えることができました。常に最高水準の品質を目指す姿勢や仕事の進め方などについて、多くのことを学びました。上司やパートナー、お客様などからの信頼と評価は、私が常に大切にしている貴重な贈り物です」 ベトナムにおけるフグ製品の可能性を切り開く フグにこだわってキャリアを築いていこうと決意していたものの、その先には不安があった。だがベトナムの沿岸地方でフグの調査をしたことで、具体的な道筋が見えてきたという。 「ベトナムはフグのポテンシャルが高い国ですが、毒性が懸念され、養殖などが禁止されています。漁師さんたちがフグの豊富な資源を活かして生活を向上できないことに、非常に危機感を覚えました。ベトナムでフグ製品の可能性を引き出し、漁師の方々の苦しみを軽減するお手伝いをしたいと思ったのです」 安全で味もよく、経済的価値のあるフグのことを知ってもらうために、ベトナムでのフグに対する認識を変える必要があるとリンさんは考えた。 [...]

Blogger, quản lý trang blog “Vietnam Real Guide” Gocchi

目指すは月間30万PV ブログを通じベトナムの楽しさを伝え続ける ブロガー/「ベトナムリアルガイド」運営 ごっち 今注目の店舗や旅行情報など、自らの体験に基づいたリアルなレビューでベトナム在住者や日本からの旅行者に厚い支持を受けるブログ「ベトナムリアルガイド」。運営するごっちさんがブログを書き始めたのは、実はベトナムに住み始めてから。今や月間PV数20万強を誇る人気ブログを育てあげた彼女に、ベトナムとの関わりを聞いた。 人気SNSを参考に独学でブログを開設 現地の人々との交流も楽しみのひとつ 「日本に住んでいた時は、働きながらも仕事や将来にどこか満足できず、悶々とした日々を送っていました。そんな時、実家が営む事業の一環で訪れたのがベトナムとの出会いでした」 渡越した2010年当時、日本の学生や新社会人の間では、海外留学や海外インターンシップが人気を集めていた。そんな折、妹のベトナム行きの話が持ち上がる。渡航準備を進める妹の様子を見て、「だったら私も行ってみよう」と思い立ったごっちさんは一足先にベトナムへ。新しい環境に身を置き、経験を積んで新しいことをしたいと思いながらも、なかなかできていなかった日本での生活。自分自身が変わるきっかけになればとの期待もあった。 「ところが、ホーチミン市で半年ほど生活するうちに、日本と言葉も習慣も異なる上に活気に沸くこの国での生活が楽しくなり`、もう少しベトナムにいたいと思うようになったんです。そこで、現地の日系サービス店に就職。その後、結婚を機に退職しましたが、子育てをしながらも何か仕事や活動をしたいと始めたのがブログだったんです」 もともと文章を書くことに興味があったというごっちさん。既に数年の滞在歴があったため、現地情報にも精通していた。そこで、新店舗の紹介や生活のお役立ち情報など、街のトレンドを取り入れながら様々な内容を盛り込んだ。 「とはいえ、ブログは以前勤めていた店の宣伝用に少し書いたことがある程度。写真の撮り方や文章構成など、手探りで学んでいきました。どんな内容や見せ方が興味を集めるのか、日本の女子校生のインスタグラムを参考にしたりすることもありました」 「ベトナムリアルガイド」はその名の通り、リアルな情報が売り。事前の下調べも行うが、最終的には実際に取材先を訪れ、自身の目で確かめるのが信条だ。 「SNSが流行っていることもあって、最近はお店の人もブロガーやインスタグラマーの扱いに慣れています。取材は1人で行くことが多いので、時には撮影を手伝ってくれることも。そうした交流も楽しんで制作しています」 6年を経て外国人読者も獲得 [...]

Phát thanh viên/Biên tập viên chương trình tiếng Nhật kênh VTV4 Lê Lan Ngọc

日本語番組のアナウンサーとして ベトナムと日本の関わりの深さを届けたい VTV4日本語番組編集者・アナウンサー レ・ラン・ゴック ベトナムテレビ外国語放送局(VTV4)の日本語番組『ジャパンリンク』で、編集者とアナウンサーを務めるレ・ラン・ゴックさん。優しく穏やかな話し方ながら、あふれんばかりの内なるエネルギーを秘めた明るい女性だ。「大好き」だという日本との関わりを目を輝かせながら語ってくれた。 父の助言で始めた日本語に一目惚れ 留学先の京都が第二の故郷に 「IT専攻の大学2年生のとき、『日本語ができれば、将来いい仕事に就ける』という父からのアドバイスを受けて、日本語の勉強を始めました。初めて見たひらがながとてもかわいくて、専攻のITより日本語センターでの勉強に夢中になりました。要するに、日本語に一目惚れしたんです(笑)」 日本語を専門的に学ぶことに決めたゴックさんは、2011年にハノイ大学の日本語学部を受験。入学後は日本語を学ぶかたわら、大学の日本語クラブ会長として2013年の日越外交関係樹立40周年イベントを開催するなど、日本に関わる活動にも積極的に参加した。 「2014年には大阪国際大学の交換留学プログラムで、日本へ行く夢が実現しました。海外へ行くこと自体が初めてで、関西国際空港に着いたときは日本のおいしい空気を胸いっぱい吸い込み、新しい旅が始まったことにわくわくしました。電車や温水洗浄便座など、便利で現代的な生活も体験できました」 ゴックさんは京都の京田辺市で、幼い子どもが2人いる日本人ホストファミリーと共に1年を過ごした。日本人のお母さんから日本料理を学ぶなど、ファミリーの“長女”となり、家族のあらゆる行事に参加した。 「日本に着いたときは、ちょうど桜の季節でした。ホストファミリーのお父さんが家族全員を京都市まで車で連れて行ってくれて、鴨川のほとりでお花見をしながら、温かいお酒を飲みました。桜の花びらがひらひらと舞う中で、家族みんなで幸せに過ごしたこの時のことを、私は決して忘れません。以前に見た映画での光景そのものでした」 ホストファミリーのサポートを受け、ゴックさんは日本で初めてアルバイトをし、茶摘みなど多くのボランティア活動にも参加した。 「ベトナムに戻ってからも、ずっと連絡を取っています。大学の卒業式、結婚式、出産など、人生の節目にはホストファミリーが祝ってくれたり、励ましてくれたり。日本人の家族がいる京都は、私の第二の故郷です」 憧れの先輩を追って日本語アナウンサーに [...]

Hamada Eriko

歴史を重ねるごとに深まるベトナムの魅力を 自分の作品を通して伝えていきたい 画家 濱田恵理子(はまだ えりこ) 温かみが感じられる作風でハノイの街を描く画家の濱田恵理子さん。もともと油絵が専門だが、美術教員として赴任したハノイで漆画に出合い、日本に戻ってからも「やっぱりベトナムを描きたい」と話す。漆などを塗り重ねて研ぎだす独特のベトナム漆画を描くことで実感した、ハノイの魅力について語ってくれた。 ハノイの街自体が自分に影響を与えた ベトナムでしかできない絵の授業 「小学校の時に、バルセロナの日本人学校に通っていました。その時の図工がとても面白かったんです。写生会に行く前にガウディの勉強をしたり、タイル画を実際に作ってみたり、バルセロナでしか経験できないような内容で、先生がどういう考えで授業をしているのかという話も聞けました」 その経験から、濱田さんの「日本人学校の教員になりたい」という夢が生まれた。美術大学を卒業後、児童館や幼稚園での勤務を経て、願い叶って美術教員として2013年に赴任したのがハノイだった。事前に思い描いていたのとは異なり、「戦争のイメージはなく、街は発展していて住みやすい」という印象の街。日本人学校では小学校の図工と、中学校の美術を担当した。 「バルセロナで先生に聞いたことを念頭に、ベトナムでしかできない授業を子どもたちに経験してもらいたいと思いました」 ”線をつなげる”授業で火炎樹を使ってオブジェを作ることから始まり、編み笠の”ノンラー”にパノラマでハノイの街を描いたり、ドンホー版画を鑑賞して物語を作ったり。2年生の初めて絵の具を使う授業では、絵の具を混ぜ合わせてランブータン、マンゴスチン、ドラゴンフルーツの絵を描くなど、ハノイの様々な素材を積極的に取り入れた。 「そんなある時、保護者の1人でウズギャラリーの経営者である難波由喜さんと知り合いました。このギャラリーではベトナムで活躍される漆画家の安藤彩英子さんの作品が展示されています」 実際に目にした漆絵に衝撃を受けた。 「今までに見たことがない作品が、ギャラリーの至るところに展示されていて。かっこいい、こんな色が出せるんだ、卵殻や螺鈿を使ったらこんな風になるんだと感動しました」 さっそくギャラリーの隣にある漆絵教室に週1回、通い始めた濱田さん。日本人学校の任期が終わり、結婚を経て2018年に再びハノイに来てからは、難波さんからの紹介で漆画家のホアンさんに師事する。ホアンさんは、安藤さんが共に漆絵を学んだ友人だ。 [...]