グエン・ティ・トゥー・ニア
観光発展による地元への貢献の夢から社会的に影響を与える仕事が目標に アジア開発銀行研究所キャパシティビルディング&トレーニングアソシエイト職員 グエン・ティ・トゥー・ニア 大手日本企業の若手リーダー育成プログラムへの参加後、グエン・ティ・トゥー・ニアさんは日本でもっと多くのことを学べると確信し、日本の大学院に入学。日本で身につけたマナーや習慣を個人で発信しつつ、ベトナムを含む政府機関のために人材育成コースを企画・研究する仕事を担当している。 日系企業での研修を機に日本留学を決断 人気観光地ダナンで生まれ育ったニアさんは、地元の観光産業の発展に貢献したいとの思いから大学で英語学部を選んだ。1ヶ月で世界一周をする「ピースボート」がダナンを訪れた際は、現地のボランティアガイドとして日本人にダナンを案内し、一緒に食事をしたり、歌ったり踊ったりした。 「日本人や日本文化に触れたことで、当時の夢だったアメリカ留学以外に、日本への留学にも興味を持つようになりました」 2017年にはアジア太平洋地域の若手リーダーを育てる大手日本企業のイノベーショングローバルリーダーのプログラムに参加。英語が堪能で実務経験が3年以上あり、社会的課題解決への強い関心をもつ人のみが参加できる内容だ。 「これが人生のターニングポイントとなりました。研修で得た学びから、自分がどのような社会的影響を与えられるかを常に考え、より良い社会を構築するために行動することを心掛けるようになったんです」 その後、修士号の取得のために日本の大学院留学の機会を模索。2017年の文部科学省(MEXT)の奨学金申請には通らなかったものの、翌年には新潟の国際大学(IUJ)の奨学金を獲得して日本留学を実現させた。 「若手リーダーの育成研修も実は2回目の申請での合格でした。1度失敗してもあきらめずに、再度チャレンジすることが大切なのだと思います」 日本の文化やマナーが好き日・越の文化を紹介する動画も作成 [...]
レ・ユイ・リン
日本の支援で起業の夢を実現 IT人材不足の問題解決に貢献したい テックゼン/代表取締役 レ・ユイ・リン IT企業を立ち上げる夢を実現するために、日本に留学したレ・ユイ・リンさん。日本のソフトウェア企業でシステムエンジニアとして経験と実績を積み重ね、ベトナム帰国後に「テックゼン/Techzen」社を立ち上げた。ベトナムと日本のIT分野の架け橋として、日本における高度IT人材不足の課題解決の一端を担っている。 日本での留学と就労を通して IT分野での知識と経験を積み重ねる ベトナムの発展においてITの重要性を強く認識するリンさんは学生時代、ITを学びながら将来は起業を夢見ていた。2007年にフエ国立大学を卒業後、留学支援制度を提供しているドンズー日本語学校に入学して奨学金を獲得し、日本留学を実現させた。 「夢を実現するためには、留学して先進国の知識や経験を学ぶ必要があると考えました。日本人がもつ自ら進んで常に学ぶ姿勢は、夢に向かって努力する私に大きな影響を与えてくれました」 来日当初、リンさんは生活費を稼ぐために、早朝から新聞配達をしたり、夜遅くまでうどん屋でアルバイトをした。生活はかなり苦しかったが、アルバイトの合間を縫って勉強に励んだ。山梨大学大学院で修士を修め、ソフトウェア企業のアドソル日進に就職してからも、この努力は続く。昼休みも電車の中でも時間を惜しんで勉強し、社内の研修制度での資格取得を目指した。 「日本人の友人たちは、自己学習力が非常に優れていました。日本の教育では実践的な知識を教えなくても、自ら学び続けていくことで仕事で早い成長を遂げるのだと思います。そんな彼らを見て、一生懸命に知識を積み重ねていけば自分の能力が向上することを認識しました」 こうした努力の甲斐あって、リンさんは次第に社内で信頼されるようになり、重要な大型プロジェクトを任されるようになった。 ダナンでソフトウェア開発や、IT人材育成、オンライン教育プラットフォーム事業などを展開する「テックゼン」社を設立したのは2022年1月のことだ。 「社名の『テックゼン』は、テクノロジーと禅の思想から名付けました。刻々と変化する社会に適応しながらも、安定した基盤とビジョンを維持するという意味を込めています」 起業の夢が叶ったのは、 [...]
山本 岳人(やまもと たけひと)
インフルエンサーになった青年海外協力隊員ベトナムと共に日本の地方を元気にしたい 国際協力機構(JICA)青年海外協力隊「番組制作」ベトナム隊員 山本 岳人(やまもと たけひと) ベトナムテレビ外国語放送局(VTV4)の日本語放送番組『ジャパンリンク/Japan Link』で、番組の制作サポートを行う山本岳人さん。広報の一環として始めたティックトック(TikTok)動画が話題を呼び、今やフォロワー数50万人を超える人気インフルエンサーとなった。 日本の地域活性化を目指し青年海外協力隊員の道へ 地元である石川県のテレビ局に入局し、過疎化や産業の衰退など、地方都市が抱える諸問題に触れてきた山本さん。地域の活性化には国内だけでなく、海外との繫がりも必要と感じるようになった。そんな折、偶然見つけた国際協力機構(JICA)海外協力隊員の募集に運命を感じ応募。テレビ局を休職し2021年9月、ベトナムの地を踏んだ。 「石川県の在住外国人の中で最も多いのがベトナムの人々なんです。そこで赴任するならこの国と最初から決め、2度目の受験で念願のベトナムにやってくることができました」 海外での暮らしや仕事は初めてだったが、勤務先がテレビ局ということもあり日常業務に支障は感じなかった。主な仕事は現地スタッフが翻訳した原稿を、ネイティブとして自然な日本語にすること。しかし、着任から2ヶ月ほど経た時、新たな課題に気がついた。 「外国語放送ということもあり、そもそも番組自体の認知度が低い。そこで広報業務を主軸に活動することにしました。ただ、『番組を見てください』と伝えるだけでは視聴者に何も届かない。まず私のファンになってもらおうと、ありのままの生活をティックトックやユーチューブ(YouTube)、ブログで配信することから始めました」 街を散策したり、美味しそうにベトナム料理を食べたり。内容は現地の生活を心から楽しむ山本さんの日常だけ。ところが自国に好意を持つ外国人の姿に多くの若者が飛びついた。今では街を歩けば道行くベトナムの人々から声をかけてもらえるようにもなった。 「視聴率のような具体的な指標がないため、実態調査はできていませんが、ティックトックでの番組紹介は平均で20万回以上再生されています」 [...]
青野 茂和(せいの しげかず)
大切なのは相手の立場や気持ちへの思いやり 覚悟をもってベトナム人を一人前に育て上げたい 祥設計/専務取締役、 設備設計一級建築士 青野 茂和(せいの しげかず) 建築物の設備設計を専門として活躍してきた青野茂和さんは、「思い立ったら即行動」の人。大手設計事務所での経験を皮切りに実績を重ね、持ち前の決断力と行動力で富山から東京、ベトナム、カンボジアと拠点を拡げてきた。各国を行き来する中、それぞれの拠点を管理できているのは、関わる人々と正面から向き合う姿勢にあった。 やる気とガッツのあるベトナム人を 時間をかけて丁寧に育てる 設備設計の専門家として、日本、ベトナム、カンボジアを飛び回る青野さん。大手設計会社で病院や福祉施設の設備設計を手掛け、その後は「使う側の思いを理解した設計がしたい」と、病院で増築や改修工事など現場寄りの経験を積んできた。 同時に経営を学ぶために参加した日本青年会議所(JCI)のイベントで、初めてベトナムを訪れた。父親が東南アジアに長く暮らしていたことから、抵抗感はとくになかったと話す。 「ベトナムだったのは、たまたまです。当時も若い人が多くて活気がありました。それに日本の建物はリノベーションが多いのですが、ここは新築の建物が多いのも印象的でした」 実際に現地を見た後、どうやったらベトナムの人と接点が取れるかを考えた青野さんは、自社の関東事務所でベトナム人のアルバイトを採用しつつ、同時にホーチミン市を行き来しはじめる。ホーチミン市建築大学を直接訪れてアルバイトを採用し、日本の改修案件の図面をCAD(Computer-Aided Design/コンピューター支援設計ツール)でトレースする作業などをしてもらいながらベトナムでの展開を模索していった。 [...]
グエン・ティ・チャー
日越のよりよい関係のために日本でベトナムの魅力を広めたい 千葉県船橋市役所市長公室国際交流課/国際交流員 グエン・ティ・チャー 日本語の学習環境が少ないベトナム中部で、グエン・ティ・チャーさんは、高校時代にアニメ好きが高じて日本語の勉強をはじめた。ハノイ貿易大学に入学後は、日本語スピーチコンテストなどに積極的に参加しながら日本に行く夢を育て、ついに実現。現在は千葉県船橋市の国際交流員としてベトナム文化を広める仕事について楽しげに語る。 数学専攻から日本語学部を目指し 日本で国際交流員に ベトナム中部ゲアン(Nghe An)省で生まれ育ったチャーさんは、高校1年生から『ワンピース』などのアニメにはまり、ベトナム語字幕のないアニメを見るために日本語の勉強を始めた。 「当時、地元には日本語教師がいなかったので、インターネットを利用しての独学でした。ヴィン大学附属英才高等学校の数学専攻の生徒が大学入試で日本語学部を受験することは話題となってしまい、反対意見や皮肉も言われましたが、日本語の勉強を続けてハノイ貿易大学日本語学部のビジネス日本語専攻に合格しました」 当初は「アニメを見るため」の日本語学習だったが、学べば学ぶほど日本に行きたい思いが強くなり、訪日に向けて一歩ずつ進んでいった。 「大学の日本語クラブや日本語スピーチコンテストに参加し、たくさんのいい出会いができました。『ナジックカップ』では最優秀賞を受賞して初めて日本へ行きました。新宿駅で終電に乗り遅れた時、やさしい日本人の方がホテルまで送ってくださり、日本人の温かさを実感できました。2019年には交換留学生として一橋大学に半年間留学し、帰国後には『ビジネスプランコンテスト』で三井物産賞をいただきました。これらの経験を通してもっと日本で生活をしたいと思い、戻るチャンスをずっと探していました」 そうして2022年8月には語学指導等を行う外国青年招致事業「JETプログラム」に参加。現在は千葉県船橋市の国際交流員となり、「アニメで見た日本のような生活」を楽しんでいる。 [...]
嶋崎 豊(しまざき ゆたか)
ベトナムとの出会いが人生を変えた この国の溢れる魅力を多くの人に届けたい ウォーキングハノイ・ ダナン・ベトナム/運営 嶋崎 豊(しまざき ゆたか) グルメやショッピング、観光スポットなど、ベトナムの多彩な情報を網羅する観光情報まとめサイト「ウォーキングハノイ/Walking Hanoi」。姉妹サイトの「ウォーキングダナン/Walking Danang」や生活情報誌「ウォーキングベトナム/Walking Vietnam」など、各媒体を通じ現地の魅力を余すところなく伝え続ける嶋崎豊さんは、「ベトナムは第2の故郷」と語る。心からベトナムを愛して止まない彼に、その魅力と想いを伺った。 駐在をきっかけに開設した現地情報媒体 多彩な魅力を伝えるべく街を駆ける ウェブサイトでコラムを執筆するなど、ハノイ観光業界の人気キャラクター「人生ユタカ」の名でも知られる嶋崎さんが、ベトナム暮らしを始めたのは2016年のこと。オフショア開発やウェブ制作を行う現地日系企業へ駐在員としての赴任だった。そんな折、ベトナムを出張で訪れた親会社の副社長が自社メディアの設立を提案。同社は日本でホテルなど観光業に特化したウェブマーケティングを得意としていたこともあり、ハノイを中心とした観光情報サイト「ウォーキングハノイ」を立ち上げることとなった。 「当時のハノイには、オリジナルコンテンツで観光情報をしっかりと伝えるウェブサイトがほとんどありませんでした。そこで、自社で取材を行うオウンドメディアを作ると面白いものができるのでは、とのアイデアがきっかけでした」 [...]
荒島 由也 (あらしま ゆうや)
ベトナムの溢れるエネルギーに吸い寄せられ起業食を通じて日越の発展に寄与したい スターキッチン/スター・コンサルティング・ジャパン創業者兼CEO 荒島 由也 (あらしま ゆうや) 荒島由也さんはジェトロ・ホーチミン事務所の「食品・農林水産分野コーディネーター」も務める食のプロ。日本の洋菓子を中心とした料理教室のほか、各種スイーツの製造・卸・販売や、日系企業の進出支援も行っている。両国を食で繋ぐ、そんな彼にとってのベトナムとは。 可能性を感じ起業を果たすも思わぬ食文化の差に苦戦 「日本では経営コンサルティング会社に勤務していましたが、いずれは独立を考えていました。市場の成長や可能性から注目したのがアセアン地域。中でもこの10年で最もチャンスがあると感じたのがベトナムでした。特に日本で経済成長を経験したことがない自分は、まさに“バブルの勢い”に飛びこんで勝負がしたかったんです」 当時のベトナムは成長に貪欲で、上昇志向のエネルギーに満ちていた。しかし、経済成長は著しくも、人々には趣味の選択肢が少ないように思えた。そこでクッキングスタジオ「スターキッチン/STAR KITCHEN」を立ち上げた。 「試食会を開くと毎回約200名もの申し込みが殺到しました。ただ、同時に思わぬ違いにも気づきました。日本で料理教室といえば自分磨きのイメージ。ところがこの国では家族や恋人のためにケーキを作りたいという動機が多かったんです」 「作り方を学ぶだけでなく販売もしてほしい」との要望に応え、洋菓子の製造・販売を開始。コンビニエンスストアやカフェへの商品提供も始めた。現地の日系デパートへ出店も果たし、その勢いは増すばかりに見えた。ところが、いざ店舗販売を始めると、思うように売上げが伸びない。 「ベトナムではお菓子の甘さは果物が基準だったんです。日本で菓子作りを学んだパティシエですら、果物だけを食べたいと言うほど。洋菓子は砂糖や油脂が多すぎる。さらにケーキは誕生日など特別なイベントで食べるもので、日常的ではなかったんです」 確かに現地のお菓子といえば塩気のある食べ物やスナック菓子か、ゆでたサツマイモやトウモロコシ、豆など甘く煮たチェー(ベトナム風ぜんざい)など自然由来の甘味がほとんど。圧倒的な食文化の差に驚いた。 [...]
グエン・フォーン・ニー
幼い頃から縁があった日本とベトナムが 理解し合い、助け合う関係作りに貢献し続けたい ジャパンベトナム ライブストック/ プロジェクトコーディネーター グエン・フォーン・ニー 幼いころから日本との縁が始まったグエン・フォーン・ニーさんは、日本政府の奨学生となり、2019年の大学卒業後は総合商社の双日に入社。一貫してベトナムにおける農業関連の事業投資に関わりながら、ベトナムと日本の共通点と相違点を身をもって学び、現在は両国の合同事業においてベトナム人と日本人の相互理解を促しながらプロジェクト全体をコーディネートしている。 幼少期を過ごした日本に戻り 学業とコミュニティ活動にいそしんだ学生生活 農業研究者である父親が茨城・つくば市で働くことになり、ニーさんは小学3年生から4年生にかけて日本で生活した。ベトナムに戻った後も、日本の友人たちと過ごした日々は忘れ難い思い出となった。 「いつか日本に戻って幼馴染と再会したい、その時は流暢な日本語で喋りたいという一心で、当時ハノイで日本語教育に力を入れていた外国語大学付属高校に入り、卒業後は日本へ留学する夢をずっと抱いていました。幸運なことに2014年に奨学金を取得でき、日本との縁が再び繋がりました」 日本では一橋大学商学部に入学。学業と並行して、ニーさんは在日ベトナム青年学生協会(VYSA)にも積極的に参加し、3年目には同協会の会長に就任した。 「私にとって本当に一生に残る思い出でした。VYSAは母国を離れて日本に来たベトナム人同士をつなぎ、困難な時にお互いを支え、海外生活での喜びや悲しみを分かち合えるコミュニティを作るのが使命です。学生をはじめとする在日ベトナム人の生活を全面的に支援することで、みんなが日本での暮らしをより楽しめ、より日本を好きになることに何よりも幸せを感じました」 ニーさんの一番の思い出は、ベトナム人学生と日本企業をつなぐ就職フェアだ。 「VYSAが主催する就職フェアは、数えきれないほどの日本人の方々から支援していただきました。イベント会場を安価で貸してくれたり、ベトナム人スタッフを必要としている日本企業に参加を呼びかけてくれたり、ベトナム人学生の多い大学にイベントの告知をしてくれたりしました。おかげでフェアは成功し、ベトナム人学生と日本企業をつないだことで、間接的に両国の架け橋となる人材を増やせたかと思います(笑)」 [...]
前川 貴則(まえがわ たかのり)
日本とベトナムをITで繋ぎ 両国の発展の架け橋となる オー・シー・ジー・テクノロジー/ ビジネスデベロップメント・ シニアマネージャー兼CEO補佐 前川 貴則(まえがわ たかのり) 東日本電信電話株式会社(NTT東日本)のグループ関連会社である「オー・シー・ジー・テクノロジー/OCG Technology(OCG)」で、前川貴則さんは現地エンジニアの技術を生かしたソフトウェア開発事業を推進している。見据えるは、両国が抱える様々な課題解決。日越の未来をつなぐ同社事業に長年携わってきた前川さんのベトナムへの想いとは。 思いがけないベトナムとの再会 密なコミュニケーションで信頼関係を構築 「2023年から始まる今回の出向は2度目の赴任となります。しかし、実は1回目である2017年のさらに前、2014年に旅行でベトナムを訪れたことがあるんです。自分では忘れてしまっていたのですが、その時に『この国で生活し、この国の発展の為に貢献したい』と一緒に旅行をしていた友人に話していたようで。そこからわずか3年後に赴任、さらに今回2度目の駐在となり、驚きました」 将来、自分が関わることになるなど想像もしていなかったベトナム。しかし、道行く無数のバイクや街や人の活気を前に、活き活きと目を輝かせていた。そんな彼のベトナムでのミッションは、NTT東日本のソフトウェア内製プロジェクトチームの立ち上げとノウハウの蓄積や人材の輩出。加えてオフショア拠点の立ち上げや体制拡充の促進と、どれも現地ベトナム人エンジニアと深く関わる内容で、慣習の違いに戸惑うことも多かった。 「オフショア開発には当然ながらセキュリティの担保が必須です。機密情報や個人情報の管理もシビアに求められます。しかし、当時は部署のドアが開け放たれていたり、重要書類が机の上に放置されていたり。セキュリティの意識の違いに驚かされました。改善を促すものの、こちらの方が便利などの反論も多く、情報共有のための報連相が徹底されないことも多々ありました」 [...]
レー・ズイ・タン
日本留学は人生の幸運お世話になった恩を返していきたい 情報科学博士、ベトナム国家大学ホーチミン市校・国際大学教授 レー・ズイ・タン 来日したことは「運命」。ベトナム国家大学ホーチミン市校・国際大学で教鞭を執りながらAIoTの研究にいそしむレ・ズイ・タンさんは、日本への留学中に多くの日本人に助けられたことで今の自分があると話す。ベトナムに戻った今は、自分の専門分野を通して両国の架け橋になることを強く願っている “日本に選ばれた”けれど日本語では四苦八苦 “ 幼い頃から『ドラえもん』や『ポケモン』などのマンガやアニメに親しみ、耐久性の高い日本製バイクや家電製品で日本を知っていたタンさん。日本語の勉強は、大学3年生の時に日本語クラブから誘われたことがきっかけだった。 「何か目的があったわけでもなく、あまりまじめに勉強をしませんでしたから、1年経ってもなかなか上達しませんでした」(笑) そんなタンさんが最終学年の時、先輩のSNS投稿を見て日本留学の一歩目を踏み出す。北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)の修士課程の奨学金に申し込んだのだ。 「『何をするにも最初が難しい』ので、実は奨学金申請が通らなくても当然だ、くらいに思っていたんです」落ちても当たり前。そんな心境から緊張することもなく面接を受けたところ、合格通知を受け取った。「日本が私を選んでくれました」 そうしてやってきた日本でまず困ったのは、日本語だった。奨学生たちはJAISTに近い石川県・小松空港に到着するはずだったが、いくつかの問題により愛知県の中部国際空港に到着。そこから電車で名古屋の中心街に着いたのは深夜12時だった。重い荷物を持ち、慣れない日本の晩冬の風は冷たく、なにより日本語がおぼつかない。泊まる場所を見つけようとしても、行く先々で「No English」と断られ続けた。 「この時に、日本語をちゃんと勉強しなければならない、と決心がつきました」 到着した夜はその後、英語ができる親切なブラジル人がインターネットカフェに連れて行ってくれたという。 日本に慣れる努力をすると色々な人が応援してくれた [...]